【第4回】妄想か、創作か
妄想。それはどこか甘美な響きを持っている。
もう そう まうさう [0] 【妄想】
( 名 ) スル
〔古くは「もうぞう」とも〕
①〘仏〙 精神が対象の形態にとらわれて行う誤った思惟・判断。妄想分別。
②根拠のない誤った判断に基づいて作られた主観的な信念。統合失調症・進行麻痺などで特徴的に見られ,その内容があり得ないものであっても経験や他人の説得によっては容易に訂正されない。 「被害-」 「誇大-」 「あらぬことを-する」 「 -にふける」
このように表記されているのを見ると、精神病的なものという認識が強いらしいことがわかる。
しかしながら、妄想というのは多くの人が一度はしたことがあるだろう。
実際のところは、割と普通の精神状態においても経験することなのだ。
創作活動というのは、ある種の妄想である。
どんなジャンルにおいても変わらないことだと考えている。
もちろん、実体験をもとにしている作品も多数存在している。
だから、すべてに当てはまることではない。
とは言っても、創作ということ自体、とてつもなく主観的であるのだ。
もはや妄想と言ってもいいようなところにあるように思ってしまう。
きっと、それは紙一重の存在。
創作として認められるものというのは、芸術的な要素があるのだろう。
思わず魅入ってしまう美しさであったり、共有できる世界観であったり。
そういったものがなければ、本人の妄想でしかないと思われてしまう。
結論として、そこに到達する。
だからこそ、”自称”アーティストほど厄介なものはない。
そう考えずにはいられないのだ。
【第3回】外国文学の真意を理解するには語学勉強が近道
外国の詩や小説を読む。
そのとき手にするのは、ほとんどが誰かの手による翻訳本である。
英語の原文を読める人は多いかもしれない。
留学先などで学ぶ外国語のほとんどは英語だろう。
でも、原文がインドネシア語だったら?ノルウェー語だったら?
胸を張って「原文ままで読める!」という日本人の方が少ない。
そこに、外国の詩や小説を理解する難しさがあると考える。
別に、翻訳家という職業が良い悪いという話ではない。
ただ翻訳本で真意を読み取れる人は少ないのでは?という見解だ。
映画の字幕に関しても同じこと。
アメリカ映画なら、ジョークの部分などでかなり差が出るはず。
多くの日本人が「?」となっているであろう。
翻訳家がどんなに頑張っても、それは仕方のないことなのだ。
留学や仕事で長年住んでいても、ネイティブにしかわからないことは多い。
その国の歴史やそれまでの流れから読み取ることも少なくないからだ。
だから、外国文学に触れるたびに感じる。
まずはその国の言葉を勉強すれば個人的に理解が深まるし、近道なのでは、と。
語学勉強を全うしている人は心より尊敬するし、正直羨ましい。
だが、人間は本気になれば何だってやる生き物だ。
その「気」が起これば、な。
【第2回】創作に関する考察②個性を叫びながら大衆性を必要とする難しさ
表現欲求の根底にはおそらく「他人とは違う自分を表現したい」という意識がある。
だからこそ、心から自分を表現したくて創作をする人は盗作をしない。
他人とは違う自分、すなわち「個性」と呼ばれる部分。
これを認めてもらうことで真の意味で表現欲求は満たされるからだ。
こ せい [1] 【個性】
ある個人を特徴づけている性質・性格。
その人固有の特性。パーソナリティー。出典:Weblio辞書
「亻」(人)の「固」有の「性」質=「個性」であるわけだ。
しかし、これを多数の人に芸術的観点から認めてもらうのは容易ではない。
人間が他人に興味を持つときは、主に2パターンある。
ひとつは、自分にはない性質を知りたいという知識欲にかられて。
もうひとつは、同志を探したいという集団帰属欲求にかられて。
この二つは相反する内容だが、どちらもよく見られることだ。
画家や作曲家、小説家などの作品が、死後に認められることもある。
そのくらい、生きているうちにすべてを認めてもらうのは難しい。
しかも、創作とはいえ似たようなことをやっている人だって多い。
その中でも、大衆の前で披露できるチャンスがある人は一握りしかいないのだ。
最近では、ウェブという広大な場所に作品を載せることもできる。
不特定多数の人の目に触れるには絶好の場所だ。
だが、ここにも星の数ほどの作品が次々とアップロードされる。
唯一無二の個性を感じさせるような、フックのある作品であること。
そして興味を持ってくれた人が共感できる大衆性があること。
最低でもこの二つを満たしていないと、人の心は次から次へと移ってしまう。
ウェブツールがあるにしろ、ないにしろ、本当に難しい。
突飛なことをやればいいわけではないし、無難なことをやればいいわけでもない。
創作する人たちは、日々試行錯誤して発表し続けるしかないのだ。
たとえたった一人でも、認めてもらえたときの感情は他で味わえない。
名が売れようが売れまいが、その一人ために創作活動を続けている人もいる。
個性と大衆性が共存する作品づくりの難しさよりも、一瞬の幸福感のほうがはるかに大きいのだ。
そのことを知っている人たちはきっと創作をやめることはないのだろう。
【第1回】創作に関する考察①ルールを守ればレールはいくつあってもいい
創作とは何か。
そう さく さう- [0] 【創作】( 名 ) スル
①それまでなかったものを初めてつくりだすこと。
②翻訳などに対して,作家の主体的創造力によって芸術作品をつくりだすこと。また,その作品。
③事実でなく想像によってつくりだすこと。また,その話など。出典:Weblio辞書
基本的にはこういった記載がされている。
私は自分の活動に関して、多くの場合「創作活動をしている」と説明している。
音楽というにはいわゆるJ-POP的な要素が足りないし、文学というにはいささか率直すぎて泥臭い。
しかし創作という言葉の意味には80%くらいは適合しているかと自己判断した結果、行き着いた先なのだ。
たまに音楽や美術など創作のプロの盗作疑惑が発覚してニュースになることがある。
誰が見ても"オマージュ"なんていうレベルではなく、もはや救いようのないもの。
ウェブ上の話でもよく問題になる"コピペ"というやつだ。
カネをもらっているのに、なぜ初歩的なルールを守れず、過ちを犯したのか。
それは、彼らに表現の欲求がないからでは?と考えている。
プロでもアマでも、創作をしている人の多くは表現に飢えている。
自分自身以外のあらゆるものに影響を受け、触発されて何かを作っているのだ。
何かを表現しようという気持ちだけがその人を動かしていることも多々ある。
しかし、盗作をするような人は表現したいという欲求に乏しく、カネや名声など表現以外の目的のために動いているのではないだろうか。
人類の歴史は長く、実に様々な文化が生まれている。
真の意味で新しいものなんて、そう簡単に生まれることはない。
音楽史上で言えば「THE BEATLESがあらゆることをやりきった」という話だ。
今を生きている人たちは皆、先人の知恵や経験を生かすもの。
多少の類似点が出るのは仕方がないことなのだ。
こんなにもたくさんの作品があふれかえった世界では「違う、これは盗作ではない」と言い張っても大した意味がない。
それよりも今は「いかに組み合わせるか」という時代。
いわゆる"先人のいいとこ取り"というやつだ。
表現したいことに対して最適な方法を選んで創作する。
しかし、そこには暗黙のルールがある。
大多数の人が盗作と思わない程度に止めなくては認められない、というルールが。
盗作をしてしまう人は、そのルールを読み取れなかったのだ。
ルールさえ守っていれば、その人がどんなレールを敷こうが誰も文句を言わない。
それが創作の醍醐味なのだから。
あの場所で僕らが生きていた頃、世界は無限大だった
小さな頃、夢を抱いていた。
とてつもなく無神経で傲慢な夢を。
それは時の流れとともに消え、夢など思い描いてはいけないと感じるようになった。
絶望から逃げるための希望を夢と呼び、調教されたサーカスの獅子の如く吠えてみせた。
ショーが終わると、臆病な獅子は独房の中で空想に耽っていた。
ある時期から毎晩同じ夢をみるようになった。
中世ヨーロッパのコロッセオのような戦場が広がり、天使も悪魔も、兵士も娼婦も、あらゆるものが入り乱れていた。
自分には翼があったようだけれど、それはどこまでも飛べる翼ではなかった。
不可視の鎖に繋がれたように、天高くそびえ立つ要塞が目の前にあるように、得体の知れない畏れだけがそこにあった。
世界はいつからこんな風になってしまったのだろう。
そう思ったけれど、それを変えられるような崇高な精神も屈強な力も持ち合わせていない。
脆弱で非力な生き物は考える。
どこまでが現実で、どこからが夢かなんてわからない。
もしかしたらこの世界そのものは仮想であり、どこかで何者かが管理しているのかもしれない。
だとすれば、これはなんと小さな世界なのだ。
もともと世界は無限大ではないか。
あの場所で僕らが生きていた頃は。